現地12月31日にインディ500に4回出走し、NASCARでは3回チャンピオンになったケイル・ヤーボローが亡くなりました。84歳でした。
サウス・カロライナ州 ティモンズビル出身のヤーボローはNASCARでは伝説のドライバーで、1976年から3年連続でカップシリーズのタイトルを獲得。通算83勝は歴代6位の記録となっています。
デイトナ500は1968年、1977年、1983年、1984年の4度制覇。しかし、デイトナでのヤーボローを最も印象付けたのは1979年のデイトナ500。ヤーボローは最終ラップにドニー・アリソンと激しいトップ争いを展開。両者はバックストレッチで激しいぶつけ合いとなり、そのまま2台はスピンしてストップ。2人はコースサイドで殴り合いの喧嘩をはじめました。
この年からデイトナ500は全米に生中継されるようになりましたが、この殴り合いは全米にそのまま生中継され、デイトナ500とNASCARストックカーレースは全米注目のスポーツとなりました。
NASCARストックカーレースでは中堅ドライバーとして名門チームのジュニア・ジョンソンから参戦していた1970年代、ヤーボローはインディカーでもその才能を見せていました。ヤーボローはインディ500に1966年に初挑戦。その予選初日ではスピードウェイに向かう途中に大渋滞捕まってしまい、途中の民家に車を止めさせてもらって、そこから徒歩でスピードウェイ入り。24位で予選通過。
しかし、決勝レースではその4周の予選ラン以上に走行することはなく、オープニングラップで発生した11台を巻き込むマルチカークラッシュに見舞われて28位でレースを終えています。
つつく1967年は予選20位でのスタート。しかし、176周目にターン3でクラッシュして17位に終わっています。
そして、その4年ぶりとなる1971年に予選14位から16位フィニッシュ。最後の挑戦となった1972年は最後列となる予選32位からキャリアベストとなる10位フィニッシュを記録しています。
1971年にはUSACチャンプカー全13戦に参戦し、トレントンとミシガンで5位のベストリザルトを2回記録。初めてオープンホイールレースにフル参戦を果たしてランキング16位でした。
ヤーボローは1988年シーズンを持って現役ドライバーを引退。自チームの運営の他、自動車ディーラーの経営などを行い、ケイルヤーボロー・モータースポーツは1999年シーズンまでNASCARカップシリーズに参戦。1997年のデイトナ・インターナショナルレースウェイでジョン・アンドレッティの優勝が唯一の勝利でした。自動車販売ディーラーとしてはホンダ車を扱うケイル・ヤーボロー・ホンダを経営してしました。https://www.caleyarboroughhonda.com/
ヤーボローのドライバーとしての残した大きな足跡で、国際モータースポーツの殿堂、アメリカモータースポーツの殿堂、NASCARの殿堂、サウスカロライナの殿堂に殿堂入りを果たしました。
さらにヤーボローは、1998年にNASCARの偉大なドライバー50人の1人に選出され、2023年には N史上最も偉大なドライバー75人の1人に選ばれました。
ドライバーとしてハンドルを握る前の高校時代はフットボールの花形プレイヤーで地元サウスカロライナではプロ入り級の選手でした。さらにアマチュアボクサーの最高峰大会であるゴールデングローブへも参加した実績があります。
ケイル・ヤーボローはリーロイ・ヤーブロー(LeeRoy Yarbrough)とは血縁関係はありません。