56歳。2003年インディ500チャンピオン
2003年インディ500チャンピオンでシリーズチャンピオンでもあったジル・ド・フェランが亡くなりました。
現地12月29日、56歳だったド・フェランは自宅のあるフロリダ州で急病で倒れたということでした。
https://www.indycar.com/photos/gallery?g=4116
1995年にCARTインディカーシリーズにデビュー。ジム・ホール率いるホールレーシングから参戦して最終戦ラグナセカで初優勝。ルーキーオブザイヤーも獲得。
1996年から3シーズンをウォーカーレーシングからCARTシリーズにフル参戦。
2000年にチームペンスキーに移籍。2000年と2001年は2年連続でCARTチャンプカーシリーズのシリーズチャンピオンに。
2002年からペンスキーはインディレーシングにフル参戦。
2003年のインディ500を制して、トヨタは日本で初めてインディ500を制したエンジンサプライヤーになりました。
インディカー、チャンプカーではキャリア12勝と21回のポールポジションを記録しています。
2005年から2007年まではF1世界選手権のBARホンダF1チームのスポーティング・ディレクターに就任。
2008年にはオーナードライバーとして現役ドライバーに復帰し、アメリカンルマンシリーズ(ALMS)でMLP2クラスに参戦。シモン・パジェノーと組んでフル参戦。
2009年はALMSでLMP1クラスにアキュラのファクトリーチームとして参戦。5勝と7回のポールポジションを獲得するもランキング2位。
その後は2011年まではドフェラン・ドラゴンレーシングの共同オーナーとしてインディカーシリーズに参戦すると同時に、2012年デビューのしんがたしゃシーの開発にも携わりました。
2018年から2021年まではマクラ―レンレーシングでF1のスポーティング・ディレクターを務め、2023年からは改めてマクラ―レンレーシングでF1のアドバイザーコンサルタントに就任していました。
フランスのパリで生まれたドフェランはその後ブラジルへ移住。ブラジルでカートレースを始め、その後は英国に拠点を移してレース活動を継続。
1991年は英国F3に参戦してランキング3位。
1992年はポールスチュワートレーシングから英国F3に参戦し、7勝してチャンピオン獲得。
1993年と1994年は国際F3000にフル参戦して、1995年からアメリカでレース活動を開始しました。
茂木で何度か見ましたが、ファンに対する紳士的な振る舞いは少年だった私に大きな刺激でした。
BARのアドバイザー就任時はバトンがら「ジルの電話がうるさい」とジョークする程、若手を気にかけていましたね。
56歳。まだまだジルにやって欲しい事はあったのに。ジルの指導でブラジル人の若手ドライバーが出てきてもよかったのに。
とても新年をお祝いする気分には慣れません。
ご冥福をお祈りします。
レーシングドライバーがレース中以外の事故で命を落とすことほど残念なことはないかと思います。
僕がジルで印象に残っていることはいくつもあるんですが、一番はやっぱり2000年CART最終戦フォンタナでの涙のシリーズチャンピオン獲得でしたね。結構苦労人というイメージがあったので、それが報われたあの時の感動は今でも忘れられません。
その他にも、タレントのヒロミさんの番組「U.S.」にもよく登場していて、日本滞在記や愛妻家で子煩悩な家族想いの一面など、レース以外での彼の魅力的な一面も垣間見られましたね。
本当に残念でなりません。
トヨタで日本メーカー初のインディ500制覇を成し遂げたのもドフェランでしたね。
エリオは前人未到の3連覇を阻まれたわけですが、その相手が盟友ジルだったというところにはドラマを感じましたね。
ジルは4月のもてぎでTKと一緒に大クラッシュして、身体がまだ完全に回復していなかったかと思います。
なので、ビクトリーレーンで立ち上がる時に辛そうでした。
ジルのクラッシュはフェニックスでしたね。
もう記憶があいまいです。