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1963年のインディアナポリス500の優勝者で、史上初めてインディ500予選で時速150マイルを超えたドライバーのパーネリ・ジョーンズ、現地6月4日にカリフォルニア州トーランスの自宅にて亡くなりました。享年90歳でした。
様々なレースで記録を残してきたジョーンズは、アメリカのみならず、ヨーロッパのトップドライバーたちからもその走りを高く評価され、インディ500では7回の出走で1勝を記録したほかに492周をリードしました。この記録は、現時点でも史上8番目に多いリード周回数となっています。また、ラップリードがなかった2回の出走(1965年と1966年)でも、多くの周回で2位を走行し、1965年には2位でフィニッシュしています。
1933年8月12日生まれで、アーカンソー州テキサーカナ出身の、本名ルーファス・パーネル・ジョーンズは、インディ500で2大会とも400マイル以上をリードし続けた唯一の人物。最初は1963年の優勝時で、2回目は1967年にオイルトリートメントで有名なSTPの創業者であるアンディ・グラナテリのチームがエントリーしたタービンエンジン車で、196周目までのうち171周をリードした後にベアリングのトラブルでリタイアに終わってます。
1962年と1963年の予選では時速150マイルを超えるトラックレコード更新でポールポジションを獲得。過去7回のインディ500出走で、6位以下からのスタートは1回もありません。
1968年に、わずか34歳でインディカーシリーズを引退。その後は長年のビジネスパートナーであっベル・ミレティッチと共にチームを立ち上げ、1970年と1971年のインディ500では、アル・アンサーSr.がドライブするPJコルトシャシーでインディ500を連勝。このシャシーは、チーフメカニックのジョージ・ビニョッティの指揮の下でチームオリジナルシャシーとして製作されました。1970年はアル・アンサーSr.がシーズンを通じてドライブし、USACナショナルタイトルを獲得しています。そして、1971年と1972年にはオートバイレースで実績のある、ジョー・レナードを起用して2年連続でタイトルを獲得しました。
同じ時期に、チームはスポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ(SCCA)主催のフォーミュラ5000と、ダートオーバルで開催されるUSACダートカーシリーズ(後のシルバークラウン)の両方にアンドレッティとアンサーを参戦させました。アンドレッティとアンサーは、この全く対照的なレースシリーズの両方で上位フィニッシュを記録し続けています。
ルーファス・パーネル・ジョーンズは、生まれはアーカンソー州ですが、家族は2歳の時にカリフォルニア州フォールブルックに移り、7歳の時にカリフォルニア州LA郊外のトーランスに引っ越しました。
本名のミドルネームが”パーネル”であったのに、いつから”パーネリ”と呼ばれるようになったのか。
17歳の時、LA郊外のガーデナでレースしていたジョーンズは、18歳以上のレース参戦資格を満たしておらず、エイリアスという偽名でレース活動を開始。ジョーンズの学校の友人の、ビリー・カルダーがこの問題を解決するアイデアを考えました。学校にはネリーという名前の女生徒がいて、カルダーは彼女がジョーンズのことが好きだとジョーンズのことをからかっていました。カルダーはジョーンズのミドルネームがパーネルであることにひっかけて、ジョーンズを「パーネリー」と呼んでいました。カルダーはパーネルのボロボロのレースカーのドアに「パーネリー」と名前をペイントし、レースへの参戦が続きましたが、そのうちに「e」のペイントが剥げてしまい、「パーネリ」となりました。
ジョーンズは1960年にUSACに参戦開始、長年の仲間であり、インディ500参戦経験もあるジム・ハーチュビスと共に、低価格な市販エンジンベースのV8シボレーエンジン搭載のスプリントカーで強豪オフェンハウザーエンジン搭載車を圧倒する成績を残しました。ジョーンズはその年のインディ500参戦を打診されましたが、友人のハーチュビスがインディ500に参戦することもあってオファーを断り、友人のハーチュビスの応援を選択。ハーチュビスは予選でトラックレコードを更新。レースでは18位フィニッシュでルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得しています。ジョーンズは、このインディ500後にUSACチャンピオンシップシリーズにデビュー。翌年の5月のインディ500へ向けてじっくりと走行経験を積んでから参戦することを選択しました。
結果的にその判断は正解でした。1960年8月のミルウォーキー200では、クイン・エッペリーが製作した「レイダウン」と呼ばれるレースカーで優勝争いを展開。ジョーンズはファイアストンのタイヤテストに招聘され、ルーキーテストを受ける前にインディアナポリスモータースピードウェイで数百マイルを走行する機会を得ることができました。迎える翌年5月を迎えるまで、ジョーンズは引き続きエッペリーの”レイダウン”をドライブするはずでしたが、ジョーンズのテスト走行を見ていたベテランのトニー・ベッテンハウゼンが”レイダウン”のハンドリング性能を絶賛し、チームオーナーのリンジー・ホプキンスに”レイダウン”の購入を強く要望。”レイダウン”はベッテンハウゼンの元へ行ってしまいました。
しかし、ジョーンズはレースカーを失うことはありませんでした。
1961年にベッテンハウゼンと契約していたJ.C.アガジャニアンは、すでにジョーンズの才能をよく知る存在で、アガジャニアンはすぐにベッテンハウゼンに代わってジョーンズと契約することを決定。ジョーンズはインディ500予選で5番手を獲得。決勝レースでは27周をリードしたものの、飛んできた小石が目に当たって出血。ゴーグルには血が流れ込み、点火系のトラブルでエンジンはパワーダウンし始めていたにもかかわらず、最終的には8周遅れの12位でチェッカードフラッグを受けました。ルーキー・オブ・ザ・イヤーは投票によって、7位フィニッシュしたボビー・マーシュマンとジョーンズの2人となっています。
1960年のUSACスプリントカーシーズンは、最終的にミッドウェストスプリントカーシリーズを制覇し、翌1961年には全米スプリントカーシリーズを初制覇しました。1961年はこれまでミッドウェスト、イースタン、パシフィックと別々で開催されていたシリーズが統一された最初のシーズンでした。ジョーンズはシーズンフル参戦ではなかったにも関わらず、最終的にUSACスプリントカーイベントのフィーチャー(決勝)レースで通算25勝を挙げ、USACミジェットカーフィーチャーレースでも25勝を挙げています。
ジョーンズは1961年シーズン最終戦としてアリゾナ州フェアグラウンドで行われた100マイルダートトラックイベントで優勝し、USACナショナルイベントで史上初の6勝目を挙げました。
ジョーンズは自身のレーシングヒーローで1952年のインディ500優勝者のトロイ・ラットマンのアドバイスに従い、アガジャニアンに支援を求めていました。ジョーンズはスプリントカーレースで得た賞金を元手に、アガジャニアンと共に数多くの不動産を取得。1965年にファイアストンの店舗を設立したジョーンズは、店舗運営に熱心に取り組み、2店舗目と3店舗目をも開業。最終的には店舗数は47にもなりました。後年に事業を売却した後も、彼はコンサルタントとして残りました。
1962年のインディ500ではロジャー・ワードが2勝目をあげましたが、ワードはそのレースでの真の勝者はジョーンズだと度々語っていました。その年の予選では唯一の150mphの壁を突破したジョーンズは、2回目のインディ500出走でありながらも、レーススタートから125周中の120周をリード。しかし、ブレーキトラブルが発生してやむを得ずペースダウン。ジョーンズはそのままレースを続行し、残りの200マイルをブレーキなしで走り続け、7位でフィニッシュしました。
1963年、ジョーンズは、カーナンバー98のワトソン-オッフィーでインディ500初優勝。しかし、レース終盤でジョーズのワトソン-オッフィーはオイルタンクに発生した亀裂からオイルが漏れ始め、後続車のスピン等もあってブラックフラッグが出される可能性があったものの、最後までブラックフラッグは出されず、ジョーンズはそのままレースをフィニッシュしています。
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1963年にインディ500に初出走するも、ジョーンズに敗れたチーム・ロータスは、その1年後にジョーンズにチーム加入を打診。最初は8月のミルウォーキー200にジム・クラークの代役として参戦。9月のトレントン200ではクラークとの2台体制で参戦。この2レース共にジョーンズが優勝しています。
チーム・ロータスを率いるコーリン・チャップマンは、F1世界チャンピオンのジム・クラークのチームメイトとしてF1のシートをジョーンズにオファー。しかし、様々な理由から、ジョーンズはそのオファーを丁重に辞退し、アメリカに残ってレースをすることを選択。1964年のUSACストックカーチャンピオンシップで15戦中8勝を挙げてタイトルを獲得し、カリフォルニア州リバーサイド・レースウェイで開催されたシーズン終盤のロサンゼルスタイムズグランプリも制しています。
ジョーンズは1965年インディ500でクラークに次ぐ2位フィニッシュし、翌週に開催された6月のミルウォーキー100で、自身にとって6回目のUSACチャンピオンシップを獲得。その時点でインディカーシリーズへの参戦を減らすことを決意。そのシーズンはその後の1レースだけに出走し、代わりにUSACストックカーと、オフロードレースに戦いの舞台を移していきました。
その時点で、すでにジョーンズは数々の結果を残してきましたが、さらに彼の走りを歴史に残すことになったのは、1967年にアンディ・グラナテリ率いるSTPのあの有名な四輪駆動タービン車でのインディ500出走でした。
ジョーンズは、練習走行では圧倒的な速さを見せたにもかかわらず、予選では6位どまり。決勝レースでは四輪駆動システムのトラクションを最大限に活用し、オープニングラップのターン2に入るままでに前の4台を大外からごぼう抜きし、先頭を走るマリオ・アンドレッティ背後につけました。ターン2をクリアしてバックストレッチに向かうと、ジョーンズは今度はラインを内側に変えてアンドレッティをやすやすとパスしリード広げていきます。
しかし、レースはわずか18周で降雨中断。レースは翌日に延期されるも、その後の展開は前日とほぼ同じでジョーンズの独走状態。しかし、40秒のリードでラスト3周となったところでギアのベアリングが破損。ジョーンズは197周中171周をリードしながらも4周遅れの6位に終わっています。
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1968年インディ500。ジョーンズは大幅に改良されたロータス製のガスタービン車でインディ500に参戦する予定も、チームメイトとして出場するはずだったジム・クラークが4月にドイツ、ホッケンハイムでのF2レースで事故死。クラークの代役で参戦したイギリス人のマイク・スペンスもインディ500の練習走行中に事故死。ジョーンズは多くのビジネス投資や家族への責任を考慮してインディ500引退を決意。共同所有していたチームも離れる決断をしました。
ジョーンズはインディ500での出走からは身を引いたものの、一切のレースをやめたわけではなく、SCCAトランザムシリーズでタイトル獲得を狙うフォードチームの一員となって、1970年にはドライバーズタイトルを獲得しました。オフロードレースでは、オリンピアビールのサポートの元でフォード・ブロンコで5つの主要大会で勝利を収め、「ビッグ・オリー」という愛称で親しまれました。ジョーンズは1971年と1972年はバハ1000、1970年と1973年はバハ500、そして1973年のラスベガスミント400を制しています。
ジョーンズの2人の息子、PJとペイジは共にプロレーシングドライバーの道を歩み、PJジョーンズは2004年と2006年にインディ500に出場。ペイジ・ジョーンズは1994年のクラッシュで重傷を負い、レースキャリアを終了するまで、中西部のショートトラックでレースで活躍していました。
パーネリ・ジョーンズは様々なレースカテゴリーでの実績が高く評価され、インディアナポリスモータースピードウェイの殿堂、全米モータースポーツ殿堂、ナショナルスプリントカーの殿堂、そしてナショナルミジェットカーの殿堂など、数多くの殿堂入りを果たしています。
パーネリ氏がいなければ、マリオやアルといった面々がレジェンドとして君臨できていなかったかもしれないし、パーネリ氏が取り組んできた事が現在のインディカーで活躍するドライバーのスピリットに色濃く受け継がれてる事が分かりました。
私はできる限り現地観戦をするか、国内に残留してもインディ500の翌日の月曜は必ず休みを取って思う存分楽しみにしています。
先達の功あってこそ、現在私も毎年5月を楽しみになるようなレースが成り立っていると感じさせられました。
RIP
長い歴史の中に様々なレジェンドやライバル関係がありました。
今後も機会があれば紹介してまいります。