士道館二代目館長・大久保義家先生の襲名披露宴

本日、豊島区の池袋警察署の隣に在るホテルメトロポリタンにて士道館二代目館長・大久保義家先生の襲名披露宴に参加させて頂きました!

士道館は1980年代後半~1990年代・更に2000年代初頭は日本国内で最大の立ち技格闘技団体マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟(以下、MA日本キック)をAPKFアジア太平洋キックボクシング連盟の事務局も兼ねるMtoonGymの前身みなみジム、真樹ジム、東金ジム、俺が御世話になった山木ジム

<我々の学年の代表の平成の怪物18松坂大輔投手と1998年夏の甲子園&国体両大会決勝で対戦37吉見太一捕手より27年早くパシフィック&イースタン両L加盟球団から高卒7年目25歳誕生日前後にドラフト三位指名>オレ流6落合博満一塁手代表される学年の山木敏弘会長が高校球児から転向し1970年高校2年17歳でスーパースター沢村忠さんに憧れ入門した野口修先生が創設し山木会長の入門当時は現役引退前後の藤本勲トレーナーが後進の指導当たっていた目黒ジムと共に中核を担い主体的に運営取り組み、

そこから山木会長が手塩にかけて育てMA日本キックの歴代王者の中でも特筆すべき存在だった(自身の経営するジムをMA日本キック加盟経験皆無ながら)TARGET・伊藤隆&クロスポイント吉祥寺・山口元気両会長が共同代表で32歳の若さで2003年2/23大森ゴールドジムで旗揚げRISE、山口会長が30代の終わり頃旗揚げ旧REBELS~新生KNOCK OUT、

そして(99年11/30金田敏男代表率いる全日本キックボクシング連盟脱退し00年山木理事長時代のMA日本キック加盟し副理事長も務められ2010年7/30にビッグバン~統一への道の第二回大会を<18年6/30閉鎖>ディファ有明で開催直前に円満離脱し現在に至るまでMA日本キックと協力関係)谷山ジム会長、WKA日本代表、㈱全日本警備保障代表取締役・谷山歳於代表率いるビッグバンプロモーション。すなわちMA日本キックは正に、現在の日本格闘技界の隆盛の担う多数の団体を発生させた源流。

※ビッグバン~統一への道の第一回大会はMA日本キックの枠内で谷山ジム25周年記念興行として2010年3/28後楽園ホールで開催。2014年4/10ビッグバン・RISE・旧REBELSの三団体合同でBLADE FIGHTING CHANPIONSHIPという新企画を記者発表し、その席上「最低でも10年間は継続する」事が約束された。一年半に渡り大田区総合体育館で何度か開催。K-1と対をなす非K-1では最大の団体を目指したが、スポンサー不足などの為運営できなくなった為、現在事実上の活動休止状態である。現在の谷山ジム=ビッグバンプロモーションはK-1 JAPAN Groupと関係を深めている。全日本キックのK-1ルールイベントとして08年11/8第一回大会開催Krushが09年6/22金田代表の失脚に伴い独立しK-1 JAPAN Groupの傘下となりビッグバンと友好関係である事は言うまでもない。ビッグバンもムエタイに近い肘打ち&首相撲有りキックルールの試合もレアケースで実施、実質的・事実上、谷山ジムの看板の一人で大ベテラン(KNOCK OUT、BOM、WBCムエタイ日本協会母体のNJKFにも参戦する)駿太選手の為に有るセクションやカテゴリー。

山木会長は96年3月<その直前までMA日本キック代表だった藤本会長代行率いる>目黒ジム、トーエルジムの前身小林塾、市原ジム、治政館、誠真塾、柴田道場<=NKB離脱の㈱伊原プロモーション母体に野口修先生創設の日本キックボクシング協会再興目指すグループ>集団離脱に伴い理事長を02年9月まで六年半務め、MA日本キックの絶頂期であった。「二十世紀最強のキックボクサー」・「地獄の風車」当時のトップファイターたるラモンデッカーを落合世代(現在の松坂世代の我々と変わらない年齢)山木会長が一度に数百万円捻出して彼の母国オランダから招聘、MA日本キックミドル級王者として無敵誇る愛弟子・港太郎選手やムエタイのレジェンド・センティアンノーイなどの対決を後楽園ホールで何度か実現させ格闘技ファンを虜にした。90年5/18山木ジム5周年記念興行ではタイ全土に衛星生中継で15時開場23時終了の八時間のロングラン開催でチャンプアゲッソンリットをはじめ当時のムエタイのトップファイターが多数参戦。

※当時のMA日本キックに玉生ジム、八街ジム、早川ジム、活殺龍、白龍ジム、土浦ジム、明和心塊、相模原道場、なにわジム、(山木理事長退任の翌03年脱退し伊原プロ母体の協会に移籍)JMNスポーツジムの前身新潟山木ジム及びビクトリージムも加盟していた。更に大阪府内でJKF日本格闘技キック連盟主宰する中川二郎代表ご経営北心ジムも参戦した事も有った。

(目黒ジムは90年代末に藤本ジムに名称変更し大番頭の鴇稔之チーフトレーナーが07年設立のKick Boxを事務局に、MA日本キック集団離脱し伊原プロ母体の協会に合流<藤本&トーエル除く※柴田一郎会長は集団離脱&協会復活の直後に急逝で96年3月末時点で道場消滅>各ジムはビクトリージムが呼び水となり伊原プロ母体の協会を23年後に再び集団離脱して2019年5/1ジャパンキックボクシング協会を設立しJMNスポーツジムも参加。上記の集団離脱の直前96年1/28MA日本キック管轄の新春士道館興行で高校2年17歳誕生日から間もない目黒ジム新人選手としてプロデビュー戦快勝し藤本ジムの大看板として目黒ジムの大先輩・伊原信一代表率いる協会主催興行でメインエベンターを何度も務めムエタイの頂点ラジャダムナン・スーパーライト級王座獲得し二連続防衛の快挙達成した石井宏樹選手は、伊原プロ母体の協会とは距離を置きジャパンキック非加盟ながら友好関係のRIKIX三田GONZというジムを経営し自身の兄貴分・小野寺力代表がプロデューサーで自身も14年2/11大田区総合体育館での引退試合として元ルンピニー・フェザー級王者ゲーオ・ウィラサクレックとのWPMF世界王座決定戦として激闘演じたNO KICK NO LIFEの運営に携わる。藤本ジムは2020年1月末閉鎖され藤本会長数か月後に78歳で御逝去。野口修先生は82歳の誕生日の67日後16年3/31御逝去の六年半前09年10/25協会主催興行で伊原代表に自身が創設者のWKBA&東洋キックボクシング連盟の代表の座を譲り後継指名し完全引退表明。野口修先生の伝記を出版したMA日本キック・リングアナウンサー細田昌志さんには本日はお会いできなくて残念)

13年3/31でマイウェイジム、橋本道場、花澤ジム、武勇会、習志野ジム等がMA日本キック集団離脱して翌4/1Japan Kickboxing Innovation旗揚げ(山木理事長が尽力し99年創立<MA日本キックの下部組織>日本アマチュアキックボクシング連盟も継承。花澤ジム出身の経営者でも、菅原道場は現在に至るまでMA日本キックの中心でHOSOKAWAジムはInnovation旗揚げ参加)、MtoonGymやMA日本キック加盟していなかったセンチャイムエタイジムや山口代表が御経営のクロスポイント吉祥寺&スクランブル渋谷もInnovation旗揚げ不参加だが数年後に加盟

※山木ジムは大看板<=山木会長と同一人物>ウルフ隼人選手が初代フェザー級王者たる日本ムエタイ連盟の事務局兼ねて中枢だったが発展的解消→89年春から06年11/30円満脱退まで17年半に渡りMA日本キック加盟し08年1月JWBC日本女子ボクシング協会発展的解消でキック・ムエタイ・K-1から完全に手を引いてJBC&東日本協会加盟しルールや会則を遵守、他の格闘技団体&別のプロスポーツ組織には一切関与を控え全く従事せず、国際式に関しても「一国一コミッション」原則を遵守。

俺自身はJBC管轄外の日本人男子ボクサー、個人事業者事業所「チーム・バカボン横浜西」代表、選手兼任マネージャー。WBU日本代表としてJBC&東日本協会と反目(笑)俺も一時期は山木ジムが荒川区東日暮里一丁目(地下鉄三ノ輪駅近く)所在しアルファボクシングジムの名称の時期に同所属でJBCセコンドライセンス保持させて頂いて2014年4/1羽村駅前に移転し俺自身は2015年12/31JBC&東日本協会と訣別。

「チーム・バカボン」はMA日本キック円満脱退の半年前6/10新宿faceでの山木ジム21周年記念興行・山木祭りで用いられた山木ジム別働部隊の名称を継承。

(丸一年前の昨年12/5生誕80周年の傘寿祝い開催し俺自身も参加した)最高相談役・藤平和雄先生は御自身より五歳下の士道館創設者・総帥のMA日本キック添野義二最高顧問を、添野最高顧問が城西大在学中に大山倍達総裁が立ち上げた極真会館から円満独立し1969年士道館(当時は添野道場)創設時から側近・腹心として半世紀以上に渡り支えてきた。大久保義家先生(戸籍上の氏名:大久保拓、キックボクサーとしてのリングネーム:ロッキー大久保)は来月61歳のお誕生日、中学時代に添野道場入門し40数年間添野最高顧問に師事してきた。

士道館は80年代後半には空手やキックと並行し(添野最高顧問の恩師・大山総裁と親交深い亜細亜民族同盟・柳川次郎初代会長がコミッショナーたる)IBF・JAPAN加盟し国際式ボクシングにも参戦。韓国でIBF世界ライトフライ級タイトルにも挑戦され新格闘術やMA日本キックのフライ級王者として無敵誇り、現在はWBCムエタイレフェリーライセンス有し(本日参加の谷山俊樹選手が2018年2/21有明ビッグバン・統一への道の第24回大会メイン<肘なし、80年代ベニーユキーデが保持した>WKA世界スーパーライト級王座獲得時の主審でもある)、俺の日本国内の試合でもインスペクター兼レフェリー務めて頂いた松田利彦さんにも2019年6/9春日部でのWBCムエタイ日本協会の母体NJKF加盟PITジム主催~絆~における俺のプロ八戦目や以来の再会が前述の藤平先生の傘寿祝いだった。

多数の御来賓や俺の様な一般参加者で大変盛況な集いに。

その松田さんのキックボクサーとしてのラストファイト・最終公式戦出場は石川勝将さん御経営㈱日豊企画がMA日本キックから手を引き事実上の活動停止に近くなり山木ジムが前述の日本ムエタイ連盟発展的解消でMA日本キック合流し活動再開の第一回目の大会89年7/2格闘技の祭典のメインで前述のバンタム級・鴇事務局長と王者対決で惜敗~半年後の90年1/3MA日本キック管轄の新春士道館興行で鴇事務局長とEX及び引退セレモニー開催。

谷山ジムが加盟する以前の90年代後半の山木理事長時代のMA日本キックの格闘技の祭典や山木理事長自身がプロモーターたる後楽園ホールでの興行でJBCが導入していなかった時期の女子国際式ルール実施しIWBF国際女子ボクシング連盟世界ストロー級タイトル戦(<東日本協会加盟・オサムジム一般会員or女子練習生の能島美由紀>白龍ジム・シュガーみゆき、米国選手との決定戦&韓国選手との初防衛戦いずれも中盤TKO勝利)まで開催。

MA日本キックの格闘技の祭典、真樹日佐夫会長の実兄の漫画家・梶原一騎先生を追悼する趣旨で開始され、梶原一騎先生の未亡人・高森篤子さんが15年4/6享年70歳とお若くして御逝去以降開催されていないが空手マッチ、シュートボクシング全日本カーディナル級(現スーパーフェザー級)王者・大津亨一(大阪ジム)と同級1位・大村勝巳(シーザージム)がノンタイトルマッチ、修斗創始者・佐山聡先生(=初代タイガーマスク)が御自身の経営するスーパータイガージムの複数の練習生とデモンストレーションマッチ、異種格闘技戦①(全日本プロレス退団しFMW旗揚げ前後)大仁田厚VS空手道場・国際空手拳法連盟「誠心会館」館長の青柳政司②(UWF→新日本プロレス復帰)藤原喜明VSイラン人キックボクサーのイサマル・チャンガニー(=オランダ人キックボクサーのロブカーマンの代役)、みちのくプロレス社長ザ・グレート・サスケVSデビューの四代目タイガーマスク、バーリトゥード、そして女子国際式ルール・・・etc、キック・ムエタイ・K-1ルールに限定せず多種多彩、より取り見取り。

俺の本籍地たる国際都市において2020年7/24開業の横浜武道館で昨年11/14や本年11/13スーパービッグバン開催、

(谷山ジムが<①斎藤京二会長経営の小国・玉城良光会長経営し後に石毛慎也選手入門の東京北星・向山鉄也会長経営のキング・SVG・東京町田金子・小森次郎会長経営し後に佐藤嘉洋選手入門の名古屋JKF・町田照夫会長経営の北流会君津・瀬戸幸一会長経営し船木実&笹羅崇裕両選手在籍の仙台青葉など藤田眞初代理事長率いるNJKF旗揚げ各ジムが集団離脱②大賀雅裕会長経営のアクティブJも独立しJ-NETWORK旗揚げ③小林秀至会長経営の八王子FSG&榎本忠館長経営の神武館も脱退しK-U設立で苦境に陥った>全日本キック加盟時期の98年9/19エース・土屋ジョーさんがMA日本キックVS全日本キックの対抗戦で山木ジムのホープ・ラビット関さん破った山木理事長がプロモーターたる興行でも<中日本協会加盟・東海Gの別働部隊>名古屋BS・菊川未紀VS<東日本協会加盟・協栄G→渡嘉敷G一般会員or女子練習生で形式的に>山木G・丸山礼子2分5R。松田さんは藤本代表時代に<野口修先生が昭和40年代初頭1965~6年JBC&東日本協会と訣別し協会旗揚げ時点から行動共にしてきた>リーチャンゴンさんの薫陶受け95年MA日本キック審判部の一員になったが山木理事長時代のMA日本キックの女子国際式には関与しなかった)

MA日本キックから発生し円満独立し現在もMA日本キックと協力関係のビッグバンプロモーションも「格闘技イベント」を標榜するのであれば、キック・ムエタイ・K-1ルールに限定せず空手マッチやプロレスやMMAも期待したい※後楽園ホールでのJBC管轄外の国際式開催は、JBC&東日本協会の実質的親会社㈱東京ドームの所有物件だから有り得ない

あるいは、俺自身も小3の89年4/24東京ドーム初の新日本プロレス興行で実施の「日米マーシャルアーツ決戦」2分5RのWKA世界S・ライト級王者ベニーユキーデVS前MA日本ライト級王者(目黒Gの大看板)飛鳥信也を生観戦し刺激を受けた(ただし判定決着無しでドロー)本年8/19ムエタイの最高峰・ラジャダムナンスタジアムにおけるブアカーオVS三浦孝太スペシャルEXマッ3分3R
俺自身もキックボクサーデビューやムエタイ転向or兼業は有り得ないが、あくまでも国際式専門のJapanese Fighterやモエジップンとして14オンスグローブ&スネ当て着用し上半身裸で首相撲・肘打ち・こかし禁止のスペシャルエキシビジョンマッチ「日泰チャンピオン対決」60㎏契約2分2Rとして全日本キック・フェザー級王者として一時期絶大な人気を誇り一世を風靡した(90年代後半の一時期は谷山G所属しビッグバン参戦経験も有する)立嶋篤史さん相手に実現させたい。

ビッグバンには日本に複数存在するキックボクシング協会やイベントが、いつか統一されるように、という願いがこめられている。特徴としては、他のキック系団体、協会、イベントとの選手人材の交流が盛んで、本来実現できないような、意外な組み合わせの試合を格闘技ファンに提供。前述の10年7/30ビッグバン~統一への道の第二回大会のメインで駿太VS市原G蘇我英樹戦(一年半後の12年1/15伊原プロ母体の協会管轄の治政館興行のメインで再戦。その前年も治政館Jr.選手・馬渡亮太君が<協力:MA日本キックと謳う>Bigbang the Future参戦。本来はMA日本キックVS伊原プロ母体の協会との交流は殆ど無かったハズ、強いて挙げれば東京ドームでのK-1 JAPAN GP’97フェザー級トーナメント初戦で東金G山崎通晃選手の代役の士道館「魔人」佐藤堅一館長代行VS前述の小野寺代表の代役で前々年95年国学院大三年<同時点から伊原代表の熱血指導受ける>全日本学生キック王者ヤマノウチスグル選手に初回KO勝)

師走の多忙な時期、コロナ禍でStay Homeが叫ばれる中、全国各地から弟子・門下生が集い来賓には前述の山木会長&谷山代表以外にも、野良犬道場顧問・藤原敏男様、シュートボクシング総帥・シーザー武志様をはじめ錚々たる面々。

本日お越しにならなかった正道会館館長・石井和義様から祝意の電報も※石井館長がプロデューサーとしてK-1 WORLD GP 2000 in NAGOYAの興行において、「ボクシング」や「国際式」の文言は用いなかったが「K-1特別ルール」と銘打って現役WBF世界王者マイクベルナルド(南アフリカ)VS<OPBFヘビー級レギュラー王座やPABA暫定王座を獲得経験有す>ジャスティンフォーチュン(豪州)のパンチ以外の攻撃認めないヘビー級6R実施(結果は初回の偶然のバッティングでNC、BOXRECに反映)

石井館長がK-1プロデューサー時代に出会って格闘技ビジネス取り組み始めた当時東海テレビ事業㈱社員の榊原信行さんがプロデューサーたるRIZINでも、「ボクシング」や「国際式」の文言は用いなかったが「スペシャルエキシビジョンマッチ3分3R」と銘打ってフロイドメイウェザーJr.VS那須川天心、「スタンディングバウト特別ルール3分3R」と銘打って五味隆典VS皇治のパンチ以外の攻撃認めない特別試合

俺も一昨年と昨年はKROSS✕OVERでWBU世界ランキング査定試合に出場。

昨年6/13東京ドーム大会では本来はK-1 JAPAN Groupが抱える最大のスター武尊との激突=ドリームマッチ実現が期待されたが、先送りに。対戦相手公募をネットで公募し俺も応募した。

那須川天心vs.3人 スペシャルマッチ特別ルール、大﨑孔稀・HIROYA・所英男の各選手1R3分

俺は、俺自身の第二の母国の国技WBCムエタイの愛する祖国日本での普及に誠に微々たる範囲で取り組む。