インディ500で3勝したボビー・アンサーが逝去






インディアナポリス500で3勝したボビー・アンサーが現地5月2日にニューメキシコ州の自宅で亡くなりました。87歳でした。



ボビーは1968年、1975年、1981年にインディ500で優勝し、インディ500で3勝以上を挙げた10人のうちの一人であり、4勝したリック・メアーズと共に60年代、70年代、80年代と3つの年代をまたがって制した二人のうちの一人でもありました。そしてその偉業が称えられてアメリカモータースポーツの殿堂入りとインディアナポリスモータースピードウェイの殿堂入りを果たしています。



また、ボビーはインディ500に挑戦した6人のアンサー家のメンバーの一人であり、4勝したアル(シニア)とは兄弟で、インディ500を共に制した唯一の兄弟でもありました。



インディカー参戦前はパイクスピークヒルクライムに参戦して総合優勝10回の最多優勝数を記録。クラス優勝は13回。コースレコードも9回更新して、コロラド州の名峰パイクスピークを”アンサーマウンテン”と言わしめました。



インディカーレース引退後はその饒舌なキャラクターもあって80年代から90年代にかけてABCのテレビ解説者を務めています。



 



ボビー・アンサーは1934年にコロラド州のコロラドスプリングスに4人兄弟の3男として生まれましたが、1歳の時に家族はニューメキシコ州のアルバカーキに移住。アルバカーキはその後のアンサー一族の定住の地となっています。



1949年に地元ニューメキシコでレース活動を開始。1950年には地元アルバカーキでモディファイドストックカーレースでチャンピオンタイトルを獲得しています。



1953年から55年までは空軍に所属。そのあとは兄弟のジェリーやアルと共にUSACでレース活動を再開させました。



USACではミジェットカー、スプリントカー、ストックカーレースに参戦して頭角を現し、1962年からインディカーシリーズにも参戦。STP創始者のアンディ・グラナテリが率いるトップチームに加入したものの1963年のインディ500デビュー戦では2周でアクシデントに巻き込まれて最下位の33位。翌年の1964年にはファーガソン4輪駆動車で参戦したものの、あの有名な1周目の大火災が発生したマルチカーアクシデントに巻き込まれて32位に終わっています。



ボビーのインディ500初優勝は1968年。ヘリコプター用のガスタービンエンジンを積んだSTPチーム3台を相手にバトルを演じて192周目にボビーは逆転して1回目のミルクを味わっています。その年のシリーズ戦では5勝を挙げて11点差でマリオ・アンドレッティを下してUSACシリーズチャンピオンを獲得しています。



1972年のインディ500はダン・ガーニー率いるオールアメリカンレーサーズ(AAA)から参戦。この年から解禁となったリアウイングと自らも開発に貢献したガー二ーフラップの効果もあって予選では前年の速度を17mphも上回ってインディ500では自身初のポールポジションを獲得。



インディ500での2勝目は1975年。AAAからの参戦で、首位を走るマクラーレンのジョニー・ラザフォードがピットに入ったタイミングでアンサーが前に出た直後に大雨が降りだして174周終了時点でレースはレッドフラッグ打ち切り。ダン・ガーニーはチームオーナーとしてインディ500初優勝をしています。



3勝目はペンスキーから参戦した1981年。ポールトゥウィンでマリオ・アンドレッティを押さえてのフィニッシュ。しかし、レース後にマリオが所属するパトリックレーシングからボビーがイエロー中にピットレーンでパッシングしたと抗議。これが認められてマリオの優勝と判定されたものの今度はペンスキーがこれに抗議。10月になって最終的にペンスキーの抗議が受け入れられてペナルティーは取り消されてボビーの3勝目が確定しました。これがボビーの最後のインディカー勝利となっています。



ボビーはインディカーレースでは通算35勝を挙げて2回のチャンピオンタイトルを獲得。19回のインディ500参戦で3勝を含むTOP10フィニッシュ10回。ポールポジション2回。フロントロースタート9回。10レースでトータル440周のラップリードは歴代10位の記録となっています。



ボビーはエンジニアとしての能力にも定評があり、常にレーシングカーのハード面でのアドバンテージを追求。アイディアがひらめくと夜中でもエンジニアに電話して解決策や新しいアイディアなどを提案するほどでした。



ジム・ホールが製造したウイングカーのシャパラルの速さの秘密を解明するのにフォトグラファーを雇って多くの写真を撮らせ、ジョニー・ラザフォードが横転事故を起こした時にレースカーの底面にあるウインドトンネルの構造を解明。ペンスキーにその写真を持ち込んでシャパラルに対抗しうるレースカーを作らせたという逸話があります。



レーシングドライバーを引退した後はその幅広い知識と饒舌さを買われてTV中継の解説者を担当。実況のポール・ペイジ、解説のサム・ポージーとのコンビネーションはインディカーレース実況の名物トリオになり、1989年インディ500実況はエミー賞を受賞しています。



TV解説の一線から退いた後でも、毎年5月はスピードウェイに滞在。1998年と1999年は息子のロビー・アンサーのドライバーコーチを務めて5位と8位フィニッシュさせています。



その後も”アンクル・ボビー”とファンから親しまれ続け、5月にはガソリンアレーでファンに囲まれてサインに応じたり、メディアセンターではジャーナリストたちと交流するなどして最後までインディ500のアンバサダーを務めていたボビー・アンサーでした。



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4件のコメント

  1. ポール・ニューマンさん主演の映画「レーサー」(原題:WINNING)にも一瞬ですがセリフ付きで出演されていましたね。御冥福をお祈りします。
    1. Dan Justinさんへ
      当時のインディアナポリスの様子がよくわかるいい映画でしたね。
      ちなみに「冥福を祈る」とは「ちゃんと天国に行けますように」と言う意味なので
      異教徒に送る言葉としてはふさわしくないとの松田さんのお話でした。
      1. 知識が無くて申し訳ないです。それから一つ思い出したんですけど、1966年に富士で開催された日本インディに出場していましたね。
        1. Dan Justin さんへ
          松田さんのお話では浄土真宗では冥土ではなく「浄土」に行くという教えなので「冥福」は使わないのだそうです。
          「冥土」とはいわゆる「天国」のことで「冥福を祈る=地獄ではなくちゃんと天国に行けますように」と追う解釈にもなるそうです。
          1966年は生まれる前ですが、現地に行って観戦して見たかったですね。

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